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「幸せな裏方 / 藤井青銅」を読んで

2017/05/16

siawasenaurakataマルチな放送作家として活躍している、藤井青銅氏の業界裏話的なコラムをまとめたエッセイ集。失礼ながら、今まで藤井さんのことはまるで知らなかったのだが、読み進むうちに、内容に関連する事で、いろいろと思い出したり気づいたことがあったので、忘れないうちに書き留めておく。

そもそも*、この本を手に取ったのは「大滝さんとの仕事の舞台裏」に興味があったからだが、文章は軽妙洒脱で、他のエピソードも含めとても面白かった。ここのところ、大滝さんに関する音楽方面の本をいくつか読んできたが、この本により、また違った切り口で大滝さんの「言葉」に触れることができた。

藤井さんが関わった大滝さんのラジオ特番、「マイケルジャクソン出世太閤記」は、放送を聞いた当時も感じたが、月の家圓鏡、浦辺粂子、フランソワーズ・モレシャンなど、片岡鶴太郎のモノマネがどれもキレキレで、とにかく面白い番組だった。個人的には鶴ちゃんのモノマネにおける、最高傑作のひとつなんじゃないかと思う。その一方、細かいところだが、(大滝さんはここを一番やりたかったらしいが)鶴太郎と谷啓による「ガチョーン」会得のやり取りなど、「一つのギャグをやけに長く引っ張るなあ」と感じるところがあったりもした。(まあ、この部分とは直接関係ないだろうが)実際、番組放送時間が少し長目になってしまったそうで、その理由がまた微笑ましく、なるほどと腑に落ちた。のちに短縮版も放送されたが、そちらは、内容をかなり端折ってあったので、番組のアクは薄まったが聞きやすくはなっている。

また、はっぴいえんど再結成ライブの特番も当時録音しながら聞いていたが、唐突にはじまる電車内のオープニングでは、一体何がはじまったんだ?と面食らったことを思い出した。ストーリーは偶然の重なりが面白おかしく強調されていて、運命的にあれよあれよと物事が進んでいった様子が伝わってくる。また、メンバーが深夜のカフェバー(死語)で会合するシーンがあり、このくだりなんぞは、自分が見た80年代中頃の都心の風景が懐かしく重なる。渋谷の道玄坂の雑居ビルが、ペンギンズ・バーの看板だらけになったのはもう少し後だったか。

大滝さんとの初仕事だったというEACH TIME特番については、番組の存在自体を知らず、聞いたのはずっと後になってから。こちらもミスDJのパロディで「ブスDJ」とか、ジェットストリームならぬ「ちょっとストリーム」とか、ニューアルバムの宣伝番組にも関わらず、やはり全編同じテイストのくだらなさに溢れている。(褒めてます)
たとえば、「夏のペーパーバック」の曲紹介では、まず、稲川淳二が街角インタビューで素人(?)のおばさんと延々とやり取りしてから、その流れでおばさんに曲タイトルを言わせてから曲がはじまるのだが、とにかく仕掛けがやたら凝っている。そのギャグというかおふざけの感じと、クールな楽曲とのギャップが尋常ではなく、聞いていて頭がクラクラする(笑)。とてもオシャレな新譜のプロモーション番組とは思えないラジカルな内容。

改めて、藤井さんが関わった3番組を聞くと、ギャグのくだらなさの具合も一貫している印象を受けた。屈託がないというか、陽(ヨウ)の笑いというか、しょ~もないけどついつい笑ってしまう。そのくせ構成や仕掛けはやたらと手間がかかっている。番組の間にちょいちょい入ってくる「事実は由比正雪より奇なり」とか「出演をいやいや快諾」とか、とにかく細かく入れないと気が済まないんだろうなあ(笑)といった感じも、なんというか理屈抜きに楽しい。・・・と、ここまで、本のレビューというより、ラジオ番組の感想になってしまった。

で、この本のエピソードで一番興味深かったのが、創作者における「ジャーナリスト・タイプ」と「アーティスト・タイプ」の話。あるとき、大滝さんとの会話で、「モノの作り手として自分はジャーナリスト・タイプだが、藤井さんはアーティスト・タイプだ」と指摘される。藤井さんは当初それは逆だろうと感じたそうだが、のちにアーティストとジャーナリストは、どちらが良いとか別に上下のものではなく並列だと捉え、むしろ世間の流行り廃りに無頓着で、己の好きなように創作するアーティスト・タイプは、作品が独りよがりになりがちであることを注意されたのだろうと思い直す。大滝さんの指摘に対する、ここの解釈がとても興味深かった。なるほど、そういうニュアンスがあるかも知れないと思いつつ「へーそう取るのかあ」といった印象も。

もちろん、自分は大滝さんの真意なんて分からないし、藤井さんとしてもエッセイを面白くするための括弧つきの解釈かも知れないが、ここは文字通りの受け取り方で良いのでは?と思ったからだ。というのは、以前新春放談で、エルヴィス・プレスリー、ロイ・オービソン、桑田佳祐といった名前を引き合いに出しながら、ミュージシャンにも理屈抜きでメロディーを紡ぎ歌う情念型(番組ではこういう言い方はしていないが…)がいて、一方で洋楽を徹底的に聞き込み分析・創意工夫し、表現してきた自分たち(大滝詠一と山下達郎)と対比していた回があった。そこでの、二人の「理詰めはダメだね」「一瞬良さげに思えるけど」といった会話にあるように、世に広く浸透するのは、むしろこの情念タイプ(アーティスト・タイプ)で、理論派(ジャーナリスト・タイプ)は傍流に留まるようなことを言っていた。無論このやり取りも、シャレを含んだ自虐ネタの面もあるかもしれないが、言っていることの内容が多分に重なると感じた。

個人的にも文中に、藤井さんが我が道をゆくアーティスト・タイプだと感じたところがある。たとえば、大滝さんにこの指摘された時も、内心逆だと思いながらも「なぜですか?」と聞き返すことはしない。同様に藤井さんの他の著書、「宇宙の法則」を、大滝さんに「瀬戸てんやわんやに通じる」と言われ、訝しく思いながらも「まあ、褒められたんだろう」と判断し、「ありがとうございます」で済ましちゃうエピソード。このあたり、実にあっさりとしている(笑)。こういった蛋白さやひょうひょうとした感じに、どこか天然(失礼!)な趣というか、アーティスティックな片鱗を感じるのだ。自分のような凡人は間違いなく意味を聞き返す。
つまり、大滝さんは藤井さんを自分とは違うタイプの創作者と認めた上で、独りよがりに対する注意というより、敬意と多少のからかいを含め、文字通りの意味でアーティスト・タイプと指摘したのではないだろうか?

大滝さんから離れ、他のトピックで思い出したのがデーモン小暮について。閣下がデビューしたのが1982年で、その年の夏、ラジオ(多分)で、デビューしたての閣下が先輩のタレント(タモリだったか?)の番組に出演したことがあった。そこで先輩相手にいっさい敬語を使わず、例の調子で「吾輩は〜」「〜である」を通していたことに驚いたのを覚えている。私は閣下より10万2歳年下だが、当時「こりゃ、心臓に毛が生えているのが出てきた」と思ったものだ。今では、敬語を使わないタレントは珍しくもないが、ああいった芸風は、当時とても新鮮で、そこだけではあるが強く印象に残っている。

ほかにも星新一が、教科書に自身の作品を載せたくない理由が気がきいていて、他のエピソードを含め、星さんの本当に紳士で温厚な人柄が伝わってくる。あと、チェッカーズのラジオコントの助っ人話は、映画「ラヂオの時間」でモロ師岡演ずるバッキーさんとダブってしまった。

自分もラジオ好きのくせに、放送作家という職業に馴染みがなかったのだが、藤井さんも永六輔、小林信彦、高田文夫といった笑いの裏方(時に表方)につながる人達の一人。こういった才能が延々とラジオ番組の土台を支えてきたのだろうと改めて思う。共通するのは、作家として創作の才能は当然として、それ以前に、まずは笑いの「見巧者」だということなのかも。人や時代に左右されない笑いに対する嗅覚と、確固とした基準があるんだと思う。この本でその裏方の仕事の一旦を垣間見させてもらった。
また一人「読まなければいけない人」が増えてしまった。

* 「最初」の意(これを書いた年にだけ通じる政治ネタギャグです。ああ、説明してしまった…)

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